前回は
帝政ロシアの崩壊に乗じて
「ウクライナ国民共和国」
の創設までを述べた。
その後どうなったのか?
ウクライナをロシアの一部と思っている「ソビエト政府」と
、ウクライナの自治独立を目指す「ウクライナ国民共和国」
は対立するんだ。
政権を担う「ウクライナ中央ラーダ」は
ドイツやオーストリアの力を借りて
「ボリシェヴィキ」(ソビエト政府の最大政党)
に対抗するも
ウクライナにやって来たドイツ軍が支配的になると
仲が悪くなり、中央ラーダは解散に追い込まれるんだ。
国家誕生したけれど
大国に囲まれ、不安定な国家運営
だったんですね。
当時は第一次世界大戦の時代であり、
様々な国家の軍隊行動が活発であった。
ウクライナという土地は
その渦中にあったんだ。
ドイツのお国事情により
ドイツ軍がウクライナから撤退すると
中央ラーダの残党達は
「ディレクトリア」
という組織を新たに作り、
首都キエフに入ると
「ウクライナ国民共和国」
を復活させた。
同じ頃、ウクライナ西部に誕生していた
「西ウクライナ共和国」が合流し
東西ウクライナが一本化する。
何世紀にも渡る悲願が実現したんだ。
1919年1月のことだ。
おおー!
キターー
だけど周辺の情勢はどうなの?
ウクライナのここまでを振り返ると
大国、強国の影響力つよくて
独自国家の創設・運営が
厳しい感じですよね。
その通り。
ここでも「ボリシェヴィキ」が立ちはだかる。
国家復活式典の数日後にはキエフを奪われ、
さらに疫病(チフス)が流行し
ウクライナ国民共和国の軍隊は
その70%を失う大ダメージを受ける。
ポーランドと同盟を結び
「ボリシェヴィキ」に抵抗を見せたが
そのポーランドがソビエト政府と和平する
どんでん返しを受けると
ポーランドの後ろ盾をうしなった
「ウクライナ国民共和国」は
消滅してしまった。
はあ〜。
やはり。
そうなりましたか〜。
歯がゆいですね。
なぜウクライナでは強国が
うまれなかったのかな?
後世に名を残す英雄、人材が少なかった。
そして
ウクライナの位置が、
西欧、ロシア、アジアの交点にあることと
世界の黒土地帯の30%を有することで
とても豊かな穀倉地帯だから
周辺諸国に狙われやすいこともあるよね。
武力で物を言わすのでなく
健全な話し合いによる問題解決が
望まれますね。
1922年
「ソビエト連邦」が成立。
その後第二次世界大戦を経て冷戦時代へ。
その間
ウクライナでは他国による分割統治へ逆戻り。
一時はナチスのドイツ軍に侵入を許すも
戦後、ソ連の統制下でウクライナ全土が
「ウクライナ共和国」
としてまとめられた。
ウクライナがまとまったのは良かった!
だけど
自分達で物事を決めることは
できなかったのでしょ?
そうなんだ。
ロシアから見ればウクライナは
ロシアの周辺地域という位置付け。
スターリンの時代には
ロシアの計画経済を支えるため
石炭や鉄鉱石などの資源や小麦などの食料が
ロシアへ徴収され
ウクライナでは大飢饉が起こるなど
苛酷を極めた。
時は流れ、ソ連が綻びを見せるなか
1985年
ゴルバチョフ氏が書記長(指導者)に就任。
グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(再建)
を両輪とする政策を打ち出した。
この「グラスノスチ」がゴルバチョフ書記長の思惑とは
違う方向に作用し、
それまでなんとかコントロールしてきた民族主義に
火を付ける結果となり
ソ連の解体を招くこととなった。
その流れの中で各共和国は独立を宣言。
勿論、ウクライナもそうだ!
統治能力を持つ政府を有し
ウクライナ人が居住するほぼ全域をカバーし
国際的に承認された上での
独立を達成した。
1991年8月24日のことである。
コサックの英雄、フメリニツキーの
ウクライナ独立への夢が
350年の時を経て
ようやく成就したんですね!
そういうことだね。
だけど
ロシアがウクライナのことを
「小ロシア」とみている限り
油断はできないよね。
今日の戦争状態がそれを物語っている。