![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
さあ、続きを始めましょうか?
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
宜しくお願いします。
ウクライナの分断が300年!
続いた、というところで小休止入りました。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
空白の300年だったのか?
と言うとそうでもない
「ウクライナ」という地名が生まれたし
歴史上、最もウクライナ的といえる「コサック」が生まれた。
アイデンティティ形成のために
必要なじだいだったといえる。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
「コサックダンス」のコサック!?
ロシアのものではないの?
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
「コサックダンス」はウクライナの伝統舞踊だね。
コサックの武芸、鍛錬術を起源としている。
コサックはウクライナのものなんだ。
今のウクライナの南の草原地帯はかつて、
遊牧民がやって来ては荒らしていく無法地帯だったんだけど
、それ以上に豊かで魅力のある土地でもあった。
16世紀に入るとその土地と定住者を守るため
自治的な武装集団が現れた。
それが長じて「コサック(軍)」と呼ばれるようになった。
コサックには様々な身分の人が参加した。
領主から逃げ出した農奴や
冒険心から加わった貴族・町人もいたし
スラブ系でない者もいた。
「コサック」が定住をした区域を「ウクライナ」と
呼ぶようになったのもこの頃からだね。
1648年
フメリニツキーなる人物が
「ヘトマン」〈首領〉に選出されてからの
10年間は「コサック」にとって絶頂期であり
「コサック国家」(ヘトマン国家とも言う)
という軍事国家が形成された。
フメリニツキーさんは今でも
ウクライナの英雄として崇拝されているね。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/06/ukraine-g26a905d0c_1920-1024x683.jpg)
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
300年をへて再び国家を樹立ですね!
おめでとうございます!
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
だけど、
「コサック」に参加している一般人が求めているのは
「自由」であり
体制による縛り付けは拒まれた。
上層部もこの想いを汲み取って
強国の保護下での自治を模索していたんだ。
かつてはポーランドの保護を受け、
軍事的に協力することで
勢力を拡大してきたが
関係が悪くなると、他国との同盟、または保護を求め、
奔走した末に
当時、益々力をつけてきた「モスクワ大公国」との保護協定を
フメリニツキーは結んだ。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
モスクワ大公国と保護協定。
今のウクライナとロシアの関係性を
暗示してるような・・・
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
今振り返って見れば
ここは歴史的転換点なんだ。
協定締結後、
モスクワ大公国は高圧的態度に
変わっていった。
モスクワ大公国からロシア帝国へ体制が変わり
西欧化、領土拡大化路線でどんどん強い国家となった。
対照的にコサック国家は衰退し、
1783年に消滅。
ウクライナの大部分はロシアに併合されてしまった。
残りの2割はオーストリア帝国に支配された。
この支配構造は
第一次世界大戦へ突入し
1917年のロシア帝国崩壊まで
つづくんだ。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
ウクライナ国家の成立・成長!
と思われましたが
分断の時代に戻ってしまいましたね。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
19世紀に入るとロシアにも
資本主義・民主主義の波が押し寄せてきた。
1853年から始まったクリミア戦争を通じ
経済的にも政治的にも遅れを取っていた事に
気付いたロシア政府は
改革に乗り出した。
だがしかし
国民に無理を強いて反発を招いた。
例えば
急速な資本主義の導入は、
その反動でマルクス主義を誕生させることとなった。
時を同じくして
各種結社や政党が出現。
強烈なマルクス主義者のレーニン主導の元、
「ボリシェヴィキ」が勢力を拡大。
1917年の二月革命でロシア帝国が崩壊。
その年の十月革命で
「ソビエト政府」を樹立するんだ。
ちなみに
「ソビエト」とは
労働者・兵士の代表者達の
評議会を指すんだ。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
ロシアでも激動の時代がやって来たんですね。
ウクライナ独立のチャンス到来!なのでは?
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/2ac010b626f286cfda28bdeaabc28674.jpg)
一方のウクライナでも、ロシア政府への反発から
「革命ウクライナ党」
を始め、様々な結社・政党が生まれた。
1917年の2月革命の知らせがウクライナに届くと、
諸政党や各種団体の代表が集まって
「ウクライナ中央ラーダ」
が編成された。
時流に乗った「ウクライナ中央ラーダ」はその権威を高め。
議会の機能を有するまでに大きくなった。
後に
「ウクライナ国民共和国」
の創設を宣言するんだ」。
![](https://imakokokara815.com/wp-content/uploads/2022/03/16473545203882442149290768778836.jpg)
ロシア支配からの解放へ向かうんですね!
コサック以来の国家樹立ですね。
その後どうなるの?
気になる〜。