物語 ウクライナ史2

さあ、続きを始めましょうか?

宜しくお願いします。

ウクライナの分断が300年!

続いた、というところで小休止入りました。

空白の300年だったのか?

と言うとそうでもない

「ウクライナ」という地名が生まれたし

歴史上、最もウクライナ的といえる「コサック」が生まれた。

アイデンティティ形成のために

必要なじだいだったといえる。

「コサックダンス」のコサック!?

ロシアのものではないの?

「コサックダンス」はウクライナの伝統舞踊だね。

コサックの武芸、鍛錬術を起源としている。

コサックはウクライナのものなんだ。

今のウクライナの南の草原地帯はかつて、

遊牧民がやって来ては荒らしていく無法地帯だったんだけど

、それ以上に豊かで魅力のある土地でもあった。

16世紀に入るとその土地と定住者を守るため

自治的な武装集団が現れた。

それが長じて「コサック(軍)」と呼ばれるようになった。

コサックには様々な身分の人が参加した。

領主から逃げ出した農奴や

冒険心から加わった貴族・町人もいたし

スラブ系でない者もいた。

「コサック」が定住をした区域を「ウクライナ」と

呼ぶようになったのもこの頃からだね。

1648年

フメリニツキーなる人物が

「ヘトマン」〈首領〉に選出されてからの

10年間は「コサック」にとって絶頂期であり

「コサック国家」(ヘトマン国家とも言う)

という軍事国家が形成された。

フメリニツキーさんは今でも

ウクライナの英雄として崇拝されているね。

300年をへて再び国家を樹立ですね!

おめでとうございます!

だけど、

「コサック」に参加している一般人が求めているのは

「自由」であり

体制による縛り付けは拒まれた。

上層部もこの想いを汲み取って

強国の保護下での自治を模索していたんだ。

かつてはポーランドの保護を受け、

軍事的に協力することで

勢力を拡大してきたが

関係が悪くなると、他国との同盟、または保護を求め、

奔走した末に

当時、益々力をつけてきた「モスクワ大公国」との保護協定を

フメリニツキーは結んだ。

モスクワ大公国と保護協定。

今のウクライナとロシアの関係性を

暗示してるような・・・

今振り返って見れば

ここは歴史的転換点なんだ。

協定締結後、

モスクワ大公国は高圧的態度に

変わっていった。

モスクワ大公国からロシア帝国へ体制が変わり

西欧化、領土拡大化路線でどんどん強い国家となった。

対照的にコサック国家は衰退し、

1783年に消滅。

ウクライナの大部分はロシアに併合されてしまった。

残りの2割はオーストリア帝国に支配された。

この支配構造は

第一次世界大戦へ突入し

1917年のロシア帝国崩壊まで

つづくんだ。

ウクライナ国家の成立・成長!

と思われましたが

分断の時代に戻ってしまいましたね。

19世紀に入るとロシアにも

資本主義・民主主義の波が押し寄せてきた。

1853年から始まったクリミア戦争を通じ

経済的にも政治的にも遅れを取っていた事に

気付いたロシア政府は

改革に乗り出した。

だがしかし

国民に無理を強いて反発を招いた。

例えば

急速な資本主義の導入は、

その反動でマルクス主義を誕生させることとなった。

時を同じくして

各種結社や政党が出現。

強烈なマルクス主義者のレーニン主導の元、

「ボリシェヴィキ」が勢力を拡大。

1917年の二月革命でロシア帝国が崩壊。

その年の十月革命で

「ソビエト政府」を樹立するんだ。

ちなみに

「ソビエト」とは

労働者・兵士の代表者達の

評議会を指すんだ。

ロシアでも激動の時代がやって来たんですね。

ウクライナ独立のチャンス到来!なのでは?

一方のウクライナでも、ロシア政府への反発から

「革命ウクライナ党」

を始め、様々な結社・政党が生まれた。

1917年の2月革命の知らせがウクライナに届くと、

諸政党や各種団体の代表が集まって

「ウクライナ中央ラーダ」

が編成された。

時流に乗った「ウクライナ中央ラーダ」はその権威を高め。

議会の機能を有するまでに大きくなった。

後に

「ウクライナ国民共和国」

の創設を宣言するんだ」。

ロシア支配からの解放へ向かうんですね!

コサック以来の国家樹立ですね。

その後どうなるの?

気になる〜。

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